日本100名城(76)
徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった梯郭式平山城。城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっている。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に戦功をあげた尾州の蜂須賀正勝は、阿波一国を与えられたが老齢のため辞退、嗣子家政が代わって阿波1国18万6000石を賜わる。1585年(天正13年)家政は名東郡富田庄の標高62mの猪山にあった渭山城と山麓の寺島城を合わせた大規模な平山城を起工。長宗我部元親、小早川隆景らの助けを得て翌1586年(天正14年)に完成、この地を徳島とした。以後、江戸時代を通して四国で最大の石高をほこる徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、以来明治に至るまで蜂須賀氏累代の居城として栄えた。現在は徳島中央公園として整備されており、太平洋戦争中で焼失した鷲之門が復元されました。また、公園内には蜂須賀家政の銅像も建てられており、市民に開放されている。国の名勝に指定された表御殿庭園に隣接する徳島城博物館では徳島藩と蜂須賀家の歴史資料が常設展示されています。
日本100名城(75)
萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった梯郭式平山城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。
萩城は指月山(標高143m)の麓にあり、指月山頂にも要害である詰丸が設けらていた。阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その内が城域となり、外が城下町であった。外堀の内に三の丸、中堀の内が二の丸、内堀の内に本丸が設けられた。本丸には、天守閣、本丸御殿、櫓が、二の丸には櫓12棟が立ち並んでいたが現在はどの建物も残っていない。しかし、二の丸には、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国指定重要文化財)が現存している。
日本100名城(74)
岩国城(いわくにじょう)は、山口県岩国市横山に存在した連郭式山城。別名横山城。初代藩主吉川広家によって1608年に作られた三層四階の桃山風南蛮造りの山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山山頂に位置していました。本丸を中心として南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には、「御土居」が築かれた。本丸には4重6階の天守などを上げていたが、築城後8年で一国一城制により取り壊され、廃城後は天守は破却されて土居が陣屋として存続した。現在の天守は昭和三十七年に再建されたものです。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
日本100名城(73)
広島城(ひろしまじょう)は、現在の広島県広島市中区基町に築かれた安土桃山時代から江戸時代の輪郭式平城。別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいま)、当麻城(たいま)とも呼ばれます。国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた城郭で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していた、初代天守は、大天守から渡櫓で南小天守と東小天守を連結した複合連結式望楼型五重五階とされているが建造時期、構造の詳細は不明。黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたもので、現在の天守は、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート造りで望楼型五重五階の天守として復興された(外観は復元)。再建された建造物は、平成元年~ 6年(1989年~1994年)にかけて再建された御門橋、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など。
日本100名城(72)
吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった山城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。標高約390m(比高190m)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、 山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。これらを組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。
日本100名城(71)
福山城(ふくやまじょう)は広島県福山市丸之内1丁目にあった輪郭式平山城で、城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。徳川幕府から西国鎮護の拠点として,譜代大名水野勝成が元和5年(1619年)備後10万石の領主として入府し元和8年(1622年)に完成した城で、江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられ、日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。伏見櫓、筋鉄御門(ともに、国の重要文化財)また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の「松の丸東やぐら」であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。筋鉄御門も元和5年(1619年)に廃城が決まった伏見城から移築されたとの伝承を生んでいます。ただし、伏見城から移築されたとの説は、文献にはまったくその記載がないため築城時の新造とする説もあり、定かではありません。2018年7月30日には福山城跡の天守閣部分に対し、広島県内では初の事例となる景観重要建造物の指定がされた。
日本100名城(70)
岡山県岡山市北区にある梯郭式平山城。岡山城の外観は黒漆塗の下見板張りが特徴的で、見た目の印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、「白鷺城」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります。
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。
秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。
秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。また藩政が安定期に入った17世紀末には、旭川を隔てて北側に藩主が憩と趣を楽しむ庭として広大な「後楽園」が作られました。大名庭園の後楽園は、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに、日本三大名園として並び称されています。城跡は国の史跡に、岡山後楽園は国の特別名勝に指定されている。
岡山城は、歴代城主の下で岡山の町並みの発展を見続け、近代都市の礎となったのです。