日本100名城(96)

飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式平山城である。飫肥城は伊東氏と島津氏により、103年にわたって激しくその領有権を争われた城です。伊東家は藤原氏南家の子孫で、800年続いた由緒ある家柄です。飫肥天正16年(1588)祐兵(すけたけ)が初代藩主となってから、江戸時代は伊東氏飫肥藩5万7千石の藩庁として繁栄した。明治4年の廃藩の時まで伊東家がこの地を治めました。苔むした石垣、大手門前の広い石段・堀跡・武家屋敷等が昔を偲ばせてくれます。松尾の丸や大手門は銘木飫肥杉で復元造営されています。飫肥城を中心に、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

 

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飫肥城国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1974年)

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飫肥城 縄張り

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大手門

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大手門東側空堀

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大手門からの階段

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松尾の丸石垣

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北門

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武家屋敷通り

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藩校 振徳堂

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藩校 振徳堂

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四半的射場

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旧伊東伝左衛門家

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旧伊東民部邸

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豫章館

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旧伊東祐正住宅

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小村記念館

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小村寿太郎生家


















 

 

日本100名城(95)

岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)に築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ岡城阯その広さは実面積で100万㎡、その広さは東京ドーム(46.755㎡)の22個分にあたる。 大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせられる。城郭構造は梯郭式山城である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された。昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。

 

城内マップ
総役所跡・現駐車場(秋)
1.総役所跡・現駐車場(秋)
大手門への登り坂(春)
2.大手門への登り坂(春)
桜の馬場と朱印倉跡(春)
3.桜の馬場と朱印倉跡(春)
西の丸御殿跡(夏)
4.西の丸御殿跡(夏)
近戸門跡(夏)
5.近戸門跡(夏)
西中仕切付近を行く大名行列(春)
6.西中仕切付近を行く大名行列(春)
本丸跡 天満社(夏)
7.本丸跡 天満社(夏)
二の丸跡 瀧廉太郎像(春)
8.二の丸跡 瀧廉太郎像(春)
二の丸跡(秋)
9.二の丸跡(秋)
東中仕切近辺(春)
10.東中仕切近辺(春)
御廟所付近(秋)
11.御廟所付近(秋)
西中仕切から見た石垣(春)
12.西中仕切から見た石垣(春)

 

日本100名城(94)

府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。城郭としての特徴は、北方を海に、東方に大分川河口が面した、高低差が殆ど無い平坦な城にあります。また、大きく三つの郭と三重の堀からなっていました。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。

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慶長二年(1597)に福原直高は豊臣秀吉の命により、「要害」としての城を築くため、府内を見て廻り、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔を築城地に定め、城造りに懸かります。朝鮮出兵などで、築城の中断がありましたが、約二年の歳月を経て、慶長四年(1599)に本丸に続き、二の丸と三の丸が完成しました。直高は「荷落」の地名を嫌い、「荷揚(にあげ)城」と名づけました。

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慶長七年(1602)から、竹中重利は、家康の許可を得て、4層の天守閣と諸櫓・門・武家屋敷・北西砦(山里丸)を造りました。その際、石垣の築造に、加藤清正の石工を、大阪や伏見から大工や瓦師を招くなど、当時の城造りの先端技術を導入しました。城下町は、南北九町、東西十町の碁盤の目状に区画され、町の北西側には京泊と呼ばれる船着場が造られ、水上交通や物資の輸送を担っていたと思われます。

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府内城配置図-「正保城絵図」を基に現在の市街地の地図に府内城を復元想定した図

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手前から西丸二重櫓、宗門櫓及び東丸の着到櫓

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人質櫓(左)と天主台(右)

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大手門

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廊下橋







 

日本100名城(93)

人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり相良氏の居城として知られています。江戸時代には人吉藩の藩庁であった。幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。これは日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない大変珍しいもので、規模は人吉城のものがもっとも大きいです。現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されています。また、隣接する人吉城歴史館には石造り地下室の遺構が保存されています。国の史跡に指定されている。

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人吉城縄張略図

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人吉城の航空写真 (1976年撮影)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

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人吉城模型

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石垣

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武者返し

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二の丸跡

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多聞櫓(復元)

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長塀の突き出し部

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長塀の突き出し部(城内側)

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長塀の突き出し部(城内側)

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御館御門橋

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角櫓(復元)

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堀合門

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跳ね出し石垣

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石碑















 

日本100名城(92)

熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。築城の名手と謳われた加藤清正が中世城郭を取り込み改築した梯郭式平山城で日本三名城の一つとされ、江戸時代から残る宇土櫓や「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣が有名です。清正は籠城戦になった際の対策として120カ所の井戸を掘り、また食料確保のため城内の建物の土壁にかんぴょうを塗篭め、畳床には食用になる「ずいき」を用いるなど、実戦的な城でした。加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の復興天守は1960年(昭和35年)に熊本国体開催と築城350年を期に、1億8000万円の費用をかけて外観復元されたもの。宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。

 

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熊本城 縄張り図

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中心部の復元模型

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熊本城本丸付近のステレオ空中写真

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2016年熊本地震被災前の熊本城(2009年撮影)

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天守・小天守

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本丸御殿(木造復元)

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本丸御殿(復元)

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長塀と坪井川

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左より小天守宇土櫓、大天守

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宇土

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宇土櫓(現存)

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飯田丸五階櫓と櫓台の2段石垣

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未申櫓(右手前・復元)と元太鼓櫓(左奥・復元)を望む

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東竹之丸の櫓群 手前から源之進櫓(L字形平面)、四間櫓、十四間櫓

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東十八間櫓

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十四間櫓(右は七間櫓)

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田子櫓(右)、七間櫓(左)

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源之進櫓

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復元された昭君之間

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御幸橋南詰にある「清正公」像

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大銀杏

 

日本100名城(91)

島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった連郭式平城。有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置し、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言える。同じ事例に、高松城天守郭(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。城は昔「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので別名を「森岳城」や「高来城」とも言います。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。

 

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島原城 縄張り図

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島原城航空写真

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古絵図

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本丸

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本丸(左)と二の丸(右)

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復興天守

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天守。2017年1月

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民具資料館(丑寅の櫓)

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西望記念館(巽の櫓)

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観光復興記念館

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御馬見所

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島原文化会館











 

日本100名城(90)

平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式平山城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。豊臣大名だった松浦鎮信は、慶長4年(1599)に日の岳城を現平戸城地に築城したが、慶長18年、徳川幕府からのあらぬ疑いを受けぬよう自ら焼却し、その後約90年間、藩政は御館で行った。元禄16年幕府から築城許可がおり、山鹿流兵法を用いて築城を行った。赤穂城と並び、数少ない山鹿流による城郭です。現在の城は1962年(昭和37)復元(天守閣三層五階建)され、その後櫓も随時整備された。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。

 

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平戸城の航空写真 (1977年撮影・国土航空写真)

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平戸城 古図

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亀岡公園マップ

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再築亀岡城の図

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模擬天守

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模擬天守

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平戸城天守図、17世紀

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北虎口門

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見奏櫓

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地蔵坂櫓

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平戸城懐柔櫓