日本100名城(98)
今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する山城である。2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナ城跡へ改められた。
14世紀の中国の史書に琉球国山北王「怕尼芝はにじ」「珉みん」「攀安知はんあんち」の三王が登場します。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」でした。北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。北山の敗北後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城としてグスクを利用します。しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。監守が住まなくなって以後は拝所とし、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れています。
日本100名城(97)
鹿児島城(かごしまじょう)は、薩摩国鹿児島城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた平山城である。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。「関ケ原の戦い」で西軍側に属して敗北した島津氏が、徳川家康の薩摩征伐に備えて築いた城でもありますが、朝鮮出兵や関ケ原の影響で財政が苦しかったこともあり、石高77万石の薩摩藩の城とは思えないほど質素な作りでした。現在も本丸と二の丸の周囲の石垣がほぼ完全な形で残されています。また、本丸跡に建てられている黎明館には鹿児島城のジオラマが展示されています。
日本100名城(96)
飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式平山城である。飫肥城は伊東氏と島津氏により、103年にわたって激しくその領有権を争われた城です。伊東家は藤原氏南家の子孫で、800年続いた由緒ある家柄です。飫肥は天正16年(1588)祐兵(すけたけ)が初代藩主となってから、江戸時代は伊東氏飫肥藩5万7千石の藩庁として繁栄した。明治4年の廃藩の時まで伊東家がこの地を治めました。苔むした石垣、大手門前の広い石段・堀跡・武家屋敷等が昔を偲ばせてくれます。松尾の丸や大手門は銘木飫肥杉で復元造営されています。飫肥城を中心に、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
日本100名城(95)
岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)に築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ岡城阯その広さは実面積で100万㎡、その広さは東京ドーム(46.755㎡)の22個分にあたる。 大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせられる。城郭構造は梯郭式山城である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された。昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
日本100名城(93)
人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり相良氏の居城として知られています。江戸時代には人吉藩の藩庁であった。幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。これは日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない大変珍しいもので、規模は人吉城のものがもっとも大きいです。現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されています。また、隣接する人吉城歴史館には石造り地下室の遺構が保存されています。国の史跡に指定されている。
日本100名城(92)
熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。築城の名手と謳われた加藤清正が中世城郭を取り込み改築した梯郭式平山城で日本三名城の一つとされ、江戸時代から残る宇土櫓や「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣が有名です。清正は籠城戦になった際の対策として120カ所の井戸を掘り、また食料確保のため城内の建物の土壁にかんぴょうを塗篭め、畳床には食用になる「ずいき」を用いるなど、実戦的な城でした。加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の復興天守は1960年(昭和35年)に熊本国体開催と築城350年を期に、1億8000万円の費用をかけて外観復元されたもの。宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。