日本100名城(10)

山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれた輪郭式平城。また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡 に指定され、日本100名城に選定されている。

山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。南北朝時代、奥州南朝方の拠点となっていた。そこで足利尊氏は、一族の斯波家兼奥州探題に任命し、北朝方の指揮をとらせようとした。家兼は大崎地方(宮城県)に住み、大崎氏と称し、子孫が探題職を世襲した。家兼は次子の斯波兼頼を1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に羽州探題として山形に入部させ、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。

元和8年(1622年)最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。

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山形城の航空写真 (1976年撮影・国土航空写真)

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霞城公園案内図

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二の丸東大手門(復元)

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霞城公園北門にある史蹟山形城址

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本丸一文字門(復元)

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二の丸東大手門(内側より、復元)

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二の丸南大手門跡