日本100名城(15)

足利氏宅跡は平安時代末期から鎌倉時代初期に源姓足利氏二代目足利義兼によって建てられた栃木県足利市家富町にある居館とされています。

市の中心部に位置する鑁阿寺の寺域にあり、南に渡良瀬(わたらせ)川が流れ、東南には足利学校跡がある。

この居館の外縁の長さは北約223m、南約211m、東約175m、西約206mの不整台形をしており、土塁(どるい)と堀により四周が囲まれています。

中世の地方豪族の邸宅の様子を知ることが出来ます。

またその規模から、いかに足利源氏の力が大きかったかがわかります。

鑁阿寺(ばんなじ)は、建久(けんきゅう)7年(1196)義兼が理真上人(りしんしょうにん)を開山として、堀の中に持仏堂を建てたのが始まりと言われています。

義兼は晩年出家し仏門に入り、鑁阿と称しました。その法名をもってお寺の名前としています。

義兼の死後、その子 義氏(よしうじ)が堀の外に十二支院を建てるなどして一山十二坊(いちざんじゅうにぼう)の整備をしました。

その後も鑁阿寺は足利氏の氏寺(うじでら)として、室町将軍家、関東公方家などから厚く保護されました。

金剛山鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。

寺号の詳名は「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来

鑁阿寺は現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。

本堂– 入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)5間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。正安元年(1299年)の建立だが、応永14年から永享4年(1407 – 1432年)に大規模な改造が行われ、この時に柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付した。平面構成は前方2間分を外陣、後方3間分を内陣及び脇陣とする密教仏堂の形式だが、建築様式は禅宗様を基調とする。組物を詰組とし、柱に粽(ちまき)を設け、扉を桟唐戸、壁を竪板壁とする点などは禅宗様の要素だが、組入天井、板敷の床など和様の要素もある。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重である。平成25年(2013年)に国宝指定。

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東上空から

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境内配置図

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山門と太鼓橋

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本堂

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鐘楼

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経堂

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多宝塔