日本100名城(16)

箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷市にあった日本の城(平山城跡)で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。

箕輪城在原業平の子孫とされている当地を支配する長野氏の長野業尚によって永正9年(1512年) 戦国時代中期に築かれた城で、たびたび城主が変わった城でもあります。長野業尚は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。

永禄4年(1561年)11月、業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正の死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。

永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。武田氏に奪われてからは武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。

元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年) 長篠の戦で内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。

天正10年(1582年)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益の居城となりましたが、同年6月2日本能寺の変」後には北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、北条氏邦箕輪城に入城し、北条氏の城となりました。

天正18年(1590年) 豊臣秀吉小田原征伐の際に箕輪城前田利家上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。

現在、城跡には空堀や土塁の一部が残るだけで建造物はひとつもありませんが、「郭馬出西虎口門(櫓門)」と「本丸西虎口門(高麗門)」のふたつの木造城門の復元が計画されています。

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箕輪城跡(航空写真)

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案内図

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本丸跡にある石碑

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郭馬出西虎口門と空堀

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本丸西虎口門跡

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大手門(石碑)