日本100名城(18)

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、深沢川が荒川 に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。また、この地は交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。

初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣 である長尾景春と伝えられている。その後に、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。その後、関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。

f:id:kouji-katayanagi:20181221115001j:plain

鉢形城曲輪配置図

f:id:kouji-katayanagi:20181221115041j:plain

鉢形城背後の荒川の段丘は高低差10数メートルあり北側の最大の防備でした。

f:id:kouji-katayanagi:20181221115111j:plain

御殿下郭の北側に御殿郭からのびた高さ4m程の土塁が現存しています。

f:id:kouji-katayanagi:20181221115140j:plain

ニノ郭は御殿下郭の南に在り現状その南方の大土塁が復元されています

f:id:kouji-katayanagi:20181221115214j:plain

笹郭、御殿下郭と外郭を仕切るかたちで深沢川が流れています、16世紀中頃北条氏により鉢形城は大きく改築され外郭が新設されました、それ以前の鉢形城はこの深沢川までが縄張であったのでしょう

f:id:kouji-katayanagi:20181221115251j:plain

深沢川が蛇行し御殿下郭、ニノ郭から突起した陸地と成った郭が在ります、そこに兵糧蔵が置かれていました、現在その郭に3m程の土塁が見られます

f:id:kouji-katayanagi:20181221115324j:plain

本丸跡

f:id:kouji-katayanagi:20181221115355j:plain

本丸跡から見た荒川と寄居町