日本100名城(19)

川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

室町時代初期の武蔵国は、武蔵国は、上杉氏と足利氏との抗争状態が激化し混乱した状況であり そうした時代背景から扇谷上杉持朝おうぎがやつうえすぎもちともが北武蔵の覇権を巡って争っていた古河公方 足利成氏あしかがしげうじと対陣するために 長禄三年(1457)家臣である大田道真・道灌(どうかん)父子に命じて江戸・岩付・河越の三城を同時期に築城した。
この三城の特徴は、舌状(ぜつじょう)にのびた台地端にあり 近隣には川が流れ 辺りを低湿地にすることにより 敵に対する防備として備え、まさに自然の要害の地であった。大田道灌は、築城家であり戦略家としても知名度の高い武将であったと云う。
この頃、室町幕府は上杉氏を支持する立場をとっていた。

長亨の乱の頃、駿河国今川氏に仕えていた北条早雲は、関東の争乱に乗じて、瞬く間に伊豆国から相模国を制圧した。早雲の継嗣・北条氏綱は、武蔵国征圧のため、1524年(大永4年)に扇谷上杉朝興の江戸城を収め落とし、翌年には扇谷方の岩槻城を占領して、武蔵の内陸に食い込んだ。朝興は河越に逃れて形成を建て直し、蕨城や岩槻城で攻防を繰り広げた(以後、河越夜戦までを総じて川越城の戦いという)。

天文6年(1537年)、に朝興が死んで朝定が家督を継ぐと、氏綱はそれに乗じて一気に攻勢をかけ、河越城を奪取し、武蔵国支配を確定した。朝定は北方の松山城へのがれ、河越城は以降、後北条氏武蔵国支配の拠点となる。特に「河越衆」と呼ばれる大道寺氏らの精鋭部隊が置かれた。

天文15年(1546年)には有名な日本三大野戦の一つ川越夜戦で、扇谷上杉氏をはじめとする連合軍を撃退しています。後北条氏河越城を手に入れると大幅な修繕を実施、特に大道寺政繁は三の丸と八幡郭の拡張を行い、西方面への防備が強化された。

しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に際し、川越城前田利家の軍勢に攻められ陥落しました。

江戸時代に入ってからは、寛永16年(1639年)に藩主となった松平信綱(知恵伊豆)の手によって近世城郭へと大改修されました。現存する本丸御殿は嘉永元年(1848年)、越前松平家・松平斉典により、本丸御殿の造営が行われる。二の丸にあった御殿が(弘化3年) 焼失し、再建したもので、これが現存する御殿である。

本丸御殿から西の方角へ5分ほど歩くと、中ノ門掘跡があります。これは西大手門から攻め込まれたときに、敵が直進できないように設けられた3本の堀のうちの一つです。平成21年に復元され、旧城内に残る唯一の堀跡となっています。

本丸御殿の東に位置する三芳野神社は川越城の天神曲輪に建てられ、「お城の天神さま」と親しまれてきました。この三芳野神社に通ずる細い参道は、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地と言われています。

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太田道灌の中世城郭ではなく、江戸時代の近世城郭の縄張りです

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江戸時代末期の1848年に建てられた御殿です

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かつての虎口跡には碑が建っていました。

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三芳野神社は平安時代はじめに創建されたものと伝わります。川越城内の天神曲輪に建てられていました

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中ノ門掘は、松平信綱の時代に造られたものといいます。堀は深さ7m、幅18mで、当時の勾配に復元されています

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田曲輪門跡と富士見櫓跡登口

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普段は蓋をしてあるのですが、いざ敵が攻めてきた時に井戸の蓋を開けると、中から霧が立ちこめて城を隠してしまったとされるのが、この霧吹きの井戸です。

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太田道灌