日本100名城(21)
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊島郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。日本国内で唯一の現役の城である。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都(とうきょうてんと)で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
江戸に根拠地を置いた武家は、江戸重継が居館を構えたのが最初で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が、享徳の乱際して1457年に江戸城を築城した。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。
ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った北条早雲の子の北条氏綱の支配下に入り、武蔵・上野の攻略拠点となる、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割も果たしたと考えられている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、1590年8月30日、駿府(静岡)から江戸に入った。
家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長8年(1603年)家康が江戸開府して以降は2代将軍秀忠、3代将軍家光にわたる天下普請による江戸城の拡張に着手。
慶長期天下普請・元和期天下普請・寛永期天下普請。
万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
明治元年(1868年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名され、皇居となる。
現在、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の櫓3基と多聞櫓3基、大手門、平川門、桜田門など多数の城門が残り、石垣と内堀がよく保存されている。