日本100名城(29)
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある梯郭式+輪郭式平城で日本の城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。
典型的な、本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、この地を治めていた信濃守護の小笠原氏が平地の井川から山麓に林城を築城し、家臣たちがそれを囲んで守るために支城を構えたが、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。その後、武田信玄が信濃に進出し林城を攻撃。小笠原長時が敗走すると、武田氏は林城を破却して深志城が武田氏の信濃支配の拠点となる。しかし、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡、その後に信濃を支配した織田信長が10月に本能寺の変で討たれ、信濃の情勢が混乱(天正壬午の乱)。小笠原長時の嫡子である貞慶はこれに乗じ、旧臣などの支援で旧領を回復し、深志城の名を「松本城」と変えた。
天正18年(1590)の小田原合戦を経て豊臣秀吉が天下を統一すると、石川数正が松本城主に任命される。城郭や城下町の整備は小笠原氏が始めていたが、石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守3棟を始め、御殿、太鼓門、黒門、櫓、塀、城郭、城下町の整備を行う。以後の松本城は、徳川家と深いつながりを持つ譜代大名が城主となり、明治維新まで存続した。本丸御殿は享保12年(1727)年に焼失し、他の建物も明治時代に焼失や取り壊しでなくなるが、現在も残る天守はこの時のもので、文禄2年から3年(1593〜1594)に築造されたと考えられている。
1592年(昭和27年)3月29日には大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の5棟が文化財保護法により国宝に指定されている。