日本100名城(39)

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国に井之口)の金華山稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。

岐阜城(ぎふ-じょう)は、岐阜県岐阜市金華山稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。京都に対して東の要所に位置し、急峻な山容の金華山からして難攻不落の名城として知られているが、内部からの裏切り(竹中重治)や籠城時点で兵力が少なかった(賤ヶ岳、関ケ原の時)などの理由で歴史上5回の落城にあっている。山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはあるが、基本的に平坦面は少ない構造となっている。
美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となり、その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山(きんかざん)となり、旧名は稲葉山と言います。
そのため、古くは稲葉山城(いなばやま-じょう)と呼ばれ、更に別名としては金華山城、井口城とも呼ばれます。

戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。 

最初の築城は鎌倉時代までさかのぼりますが、1201年に二階堂行政稲葉山に築城したのが始まりとされます。
その後、戦国時代になった1525年には斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃し、長井家の支配下となり、城としての整備が始まります。
長井新左衛門尉が1533年に亡くなったあとは、その養子の斎藤道三稲葉山城主となりました。

1539年頃には、斎藤道三稲葉山城を拠点として改修し、現在の場所に伊奈波神社を移したと伝わり、麓に本格的な城下町を整備しました。岐阜城小牧山城安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。道三時代までは戦国期の典型的な詰城であったが、信長入城からは戦いの為の城でなく、基本的に城主の居住空間であり、見せる城であった。

 天正4年(1576年)に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。楽市楽座の保護など当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変な賑わいでした。

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現地説明板の図

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岐阜城図(円徳寺蔵)

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金華山の山上にある復興天守岐阜城資料館

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天下布武の印

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岐阜城の復興天守

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岐阜城資料館

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天下第一の門

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岐阜城下町

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岐阜城と月が織りなす風景が「日本百名月」に認定されました