日本100名城(42)

掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城で戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊が城主として10年間在城中によるもので大規模な城郭修築を行い、本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。また、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城掛川城を模して作られたとも伝えられています。現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が平成6年(1994年)4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。

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掛川城縄張り図

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掛川城正保城絵図

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太鼓櫓 城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物です。当時使われた大太鼓は現在、市の文化財に指定され、掛川城御殿の広間に展示されています。

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天守及び太鼓櫓

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掛川城と月

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四足門 調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入場者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。

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掛川城二の丸御殿。国の重要文化財に指定されている

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掛川城大手二の門が移築された油山寺山門。国の重要文化財

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復元大手門

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復元整備された天守と城門

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三日月堀 本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートルありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかりました。  内掘にはこの三日月掘の他、十露盤(そろばん)堀・松尾池などがあります。

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霧吹井戸の伝説 東海を制す重要な拠点だった掛川城には、さまざまな言い伝えが残っており、霧吹井戸の伝説もそのひとつです。  西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた駿河今川氏真は、重臣朝比奈泰朝掛川城へ逃げ込みます。この城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったといいます。以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。  霧吹井戸は、天守台の脇に現存しています。