日本100名城(52)
観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)である。観音寺城は別名、佐々木城と呼ばれています。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。日本五大山城のひとつで、標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配し、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であった考えられており、総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。織田信長が安土城を築城する際に参考にしたという説もあります。
「応仁の乱」では観音寺城をめぐり3度にわたって攻城戦が展開されました。1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛した際9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ、無血開城しています。六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと見られている。一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある。荒廃してはいるものの土塁や石垣など、多くの遺構を確認することができます。城跡は国の史跡に指定されている。
山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城であったため、防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。