日本100名城(55)
千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式連郭式山城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城で楠木七城の一つである。
楠木正成は、前衛の城として下赤阪城を、本城として上赤阪城を持っていました。 千早城は上赤坂の背後に築いた詰城でした。
千早城は堅牢な山城で、尾根上に配置された13の曲輪と、尾根につながる稜線上に配置された9の曲輪で構成されている。正成が奇策を用いて20万の鎌倉幕府軍を相手に100日にもおよぶ籠城戦を戦いぬき、幕府軍が千早城に釘付けとなっている間に、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれることとなった。建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。その後1392年(明徳3)北朝方の畠山基国に攻められ正成の孫である楠木正勝が防戦するも落城し61年に及ぶ歴史に幕を閉じ廃城となる。
城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深いに谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている。