日本100名城(56)
竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった梯郭式山城縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。またこの地域は、しばしば秋の良く晴れた朝に濃い霧が発生することがあります。この朝霧が竹田城跡を取り囲み、まるで雲海に浮かぶように見える姿から、いつの頃からか竹田城跡は「天空の城」と呼ばれるようになりました。平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されました。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある(ちなみにこの3曲輪は、ほぼ同じ高さに設計されている)。
竹田城のはじまりは嘉吉年間(1441〜1443)に山名宗全の配下の太田垣氏による築城とされ、石垣は無く土の城だったと考えられている。天文7年(1538)以降は、生野銀山の採鉱が本格化し、その領有権でも重要な城となる。秀吉が姫路に入って後、秀吉は西の上月城を攻め、弟の小一郎秀長は、天正5年(1577)、3,000の兵で但馬攻めを行い竹田城は陥落する。石垣は主に文禄年間から慶長初期の間に、当時秀吉配下となった元播磨龍野城城主、赤松広秀によって築かれた。近江の穴太衆による石垣と同技術の野面積みで、そのコーナー部の反りには算木積みが大成する前の過渡期の積み方が見られる。関ヶ原の戦いの後に、赤松広秀の死とともに廃城となり、約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。