日本100名城(73)

広島城ひろしまじょう)は、現在の広島県広島市中区基町に築かれた安土桃山時代から江戸時代の輪郭式平城。別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいま)、当麻城(たいま)とも呼ばれます。国の史跡に指定されている。毛利輝元太田川河口のデルタ地帯に築いた城郭で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していた、初代天守は、大天守から渡櫓で南小天守と東小天守を連結した複合連結式望楼型五重五階とされているが建造時期、構造の詳細は不明。黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたもので、現在の天守は、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート造りで望楼型五重五階の天守として復興された(外観は復元)。再建された建造物は、平成元年~ 6年(1989年~1994年)にかけて再建された御門橋、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など。

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正保城絵図『安芸国広島城所絵図』広島藩に関する絵地図の内、最も信頼性の高い地図

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被爆数年前の広島城天守

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東小天守の跡(奥の石垣)。手前は初代大天守の礎石を移設したもの。

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南小天守の石垣

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広島城天守東側

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広島城天守 望楼部分

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復元天守と水堀

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広島城夜(9時)

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広島城天守閣(2012年11月撮影)

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広島城天守

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左から、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

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外郭櫓台跡

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平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

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表御門

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平櫓内部

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被爆前。被爆前後の本丸および二の丸。米軍撮影。本丸中央が旧大本営。本丸左下の3つ並ぶ建物が第5師団司令部で被爆当時は中国軍管区司令部。この時点で中堀は空堀になっていると分かる。

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被爆後。被爆前後の本丸および二の丸。米軍撮影。本丸中央が旧大本営。本丸左下の3つ並ぶ建物が第5師団司令部で被爆当時は中国軍管区司令部。この時点で中堀は空堀になっていると分かる。

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1988年

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2016年