日本100名城(69)

鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城(こうごいししきやまじろ))で、大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城(朝鮮式山城)で、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている。城跡は国の史跡「鬼城山」(1986年(昭和61年)3月25日指定)の指定範囲に包含される。

鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。
 城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m~数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。異民族からの侵攻を防ぐために造られた長城は、日本版の万里の長城

 城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大なもので、4つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には、食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。
 この他に城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎、各種の作業場なども予測されるが未発見である。

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鬼ノ城縄張

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鬼ノ城全景

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角楼(左)と西門(右)

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角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む

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鬼ノ城遠望(水城状遺構より)

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鬼ノ城に近づき易い尾根を警戒する角楼

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西門(城内より)

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西門(城外より)

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水城状遺構を望む(城内より)

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鬼ノ城角楼(城外より)

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北門(城外より)

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屏風折れの石垣

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鬼ノ城第二水門

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水城状遺構を望む

 

日本100名城(68)

松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にあった連郭式山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。四国の愛媛県松山市にある松山城を初め、各地の松山城との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶ。城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守や二重櫓、土塀の一部などが重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には岡山県高梁高等学校がある。標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん、がぎゅうさん)山頂にある。臥牛山(松山)は,北から「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。

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備中松山城 縄張図

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主郭部復古図

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備中国松山城絵図(国立公文書館)

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松山城本丸(平成の復元後)

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臥牛山展望台より天守

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展望台より雲海に浮かぶ備中松山城を望む

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天守重要文化財

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天守1階の様子

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三の平櫓東土塀(重要文化財

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二重櫓(重要文化財

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石垣群











 

日本100名城(67)

津山城(つやまじょう)は、津山盆地の中央部に位置する岡山県津山市山下にあった梯郭式平山城本能寺の変で討死した森蘭丸の弟森忠政が、鶴山(つるやま)に築いた日本三大平山城のひとつで森氏の居城として知られています。城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。巨大な城だったと伝えられており、広島大学の三浦正幸教授の研究によると、櫓の数が最も多い城郭は広島城で76棟、次いで世界遺産である姫路城が61棟ですが、津山城は60棟と、それらの城郭に続き日本で三番目に櫓の数の多い城郭だそうです2005年には築城400周年を記念して備中櫓が復元されました。別名・鶴山城(かくざんじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。現在は鶴山公園として桜の名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれています。

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日本有数の櫓の数を誇る津山城

 

  天守 五重五階、地下一階
六番門 櫓門
多門櫓 多聞櫓、二箇所二重櫓
七番門 櫓門
長櫓 二重櫓
八番門 櫓門
九番門 (土塀潜門)
五番門 (高麗門)
備中櫓 二重櫓
10 長局 多聞櫓
11 十番門 (土塀潜門)
12 到来櫓 二重櫓
13 台処門 櫓門
14 使者櫓 平櫓
15 表鉄門 櫓門及び続多聞櫓
16 包櫓 平櫓
17 十四番門 櫓門
18 太鼓櫓 二重櫓
19 瓦櫓 平櫓
20 走家 土塀付属の平家
21 走家 土塀付属の平家
22 矢切櫓 (二重櫓)
23 月見櫓 平櫓
      24 十一番門 櫓門
25 十二番門 土塀潜門
26 粟積櫓 二重櫓

 

27 大戸櫓 二重櫓
28 長屋櫓 多聞櫓
29 桜門 櫓門
30 裏鉄門 櫓門
31 腰巻櫓 平櫓
32 埋門 櫓門
33 七間廊下 多聞櫓
34 十三番門 高麗門
35 涼櫓 二重櫓
36 裏中門 櫓門
37 小姓櫓 二重櫓
38 色付櫓 二重櫓
39 麦櫓 平櫓
40 長屋 多聞櫓
41 荒和布櫓 二重櫓
42 道明寺櫓 二重櫓
43 干飯櫓 平櫓
44 裏下門 櫓門
45 紙櫓 二重櫓
46 池上門 (土塀潜門)
47 番所 平櫓
48 格子門 高麗門
49 肘櫓 二重櫓
50 十九番門 (潜門)
51 腰掛 (平家)
52 白土櫓 二重櫓
53 塩櫓 二重櫓
54 昇櫓 二重櫓
55 長柄櫓 二重櫓
56 十八番門 櫓門
57 二の丸台所 長屋
58 十七番門 (潜門)
59 鉄砲櫓 多聞櫓
60 四足門 薬医門
61 毛櫓 平櫓
62 切手門 櫓門
63 弓櫓 多聞櫓
64 辰巳櫓 二重櫓
65 十六番門 櫓門
66 玉櫓 二重櫓
67 塩蔵 土蔵
68 見付櫓 二重櫓
69 表中門 櫓門
70 長屋門 長屋門
71 火縄蔵 多聞櫓
72 煙硝埋蔵 (土塁で囲んだ蔵)
73 番所 平家
74 冠木門 (高麗門)
75 二階門 櫓門
76 長屋 多聞櫓

 

 

 

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津山城復元模型

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在りし日の津山城の絵画

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美作国津山城絵図

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津山城の空中写真(1976年) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 主要部のステレオ写真

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備中櫓(2005.3.19落成式当日)

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津山城の古写真(明治初頭、撮影松平国忠)

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天守

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天守台内部

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天守台の入口

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石垣

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裏鉄門跡

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鶴山館

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天守台から見る備中櫓

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備中櫓2階

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備中櫓と桜

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備中櫓から見る模擬天守

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天守台から望む津山市
















 

日本100名城(66)

 津和野城(つわのじょう)は津和野盆地の南西部(島根県鹿足郡津和野町後田)に横たわる標高367メートルの霊亀山に築かれた連郭式山城。築城時からは少なくても室町時代後期(戦国時代)までは三本松城(もしくは一本松城)と呼ばれていた。尾根伝いに南にある出城の中荒城、当城と併せて国の史跡指定されている。

関ケ原の戦いの戦功で入城した坂崎出羽守成正は、城郭の大改築をはかり、本丸の北方約200mの山頂に側面防衛のための出丸である織部丸(おりべまる)を築いた。今日残る遺構の大部分がこのとき築かれたものである。また城の内堀は城山をめぐって流れていた津和野川をあてた。亀井氏になって寛文年間(1661〜1673)に現在の大橋から横掘までの約1kmにわたって外堀が掘られた。

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津和野城 縄張り図

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人質郭跡と三の丸

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雲海の津和野城

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天守台の石垣

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人質郭と三十間台の石垣

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織部丸の石垣

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馬場先櫓

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天守

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太鼓丸跡

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腰郭(左)と二の丸の石垣(右)

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南門跡(内側)

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南門櫓の石垣

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西門櫓の石垣

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西側の三の丸跡

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西側の三の丸跡

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東門跡

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東門の三段櫓跡

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堀切跡

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物見櫓

 

日本100名城(65)

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した複郭式山城。月山(吐月峰、標高191.5m)山上に本丸をおく典型的な山城。歴代の出雲国守護職の居城で1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となり、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。城郭跡は日本五大山城と日本五大山岳城のひとつで、国の史跡に指定されている。

尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われたが最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるも1611年(慶長16年)に堀尾忠晴が松江城へ移ると月山富田城も廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。

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月山富田城 縄張り

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月山富田城遠景(2016)

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「花の壇」から望む月山山頂部

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七曲りから眺めた山中御殿と周辺の様子

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富田月山城絵図

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山中御殿跡と月山

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堀尾吉晴墓所

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新宮党館跡

 

日本100名城(64)

松江城の歴史

歴代藩主家系

堀尾氏(慶長5年~寛永10年)
堀尾義晴の肖像
堀尾義晴
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、遠江国浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。豊臣秀吉徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残している。城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いた。
京極氏(寛永11年~寛永14年)
京極忠高の肖像
京極忠高
堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜(福井県)から出雲に入国した。3年余りの短い統治期間であったが、当時、度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修をした。現在でも京極若狭守忠高にちなんだ「若狭土手」という名を残している。また、幕府直轄領であった石見銀山世界文化遺産)の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主のなかで最大の領地を治めた。徳川二代将軍・秀忠と正妻・江夫妻の四女が忠高の正妻・初である。
松平氏(寛永15年~明治4年)
松平直政の肖像
松平直政
京極家の跡を継ぎ、信濃国松本(長野県)から出雲に入国した。慶長19年(1614年)、14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘した。敵将真田幸村は、その武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたという。徳川初代将軍・家康の第二子・結城秀康の第三子である。
城主 [初代 直政(なおまさ)]---[綱隆(つなたか)]---[綱近(つなちか)]---[吉透(よしとお)]---[宣維(のぶずみ)]---[宗衍(むねのぶ)]---[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]---[斉恒(なりつね)]---[斉貴(なりたけ)]---[定安(さだやす)]

廃城令。地元の有志により買い戻す

明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。
※当時米一俵が3円弱といわれた。

松江城国宝・重要文化財

1935年(昭和10年)「国宝保存法」により国宝に指定。
1950年(昭和25年)5月文化財保護法制定により、「重要文化財」と呼称。
2015年(平成27年)5月15日 国の文化審議会において、国宝に指定するよう文部科学大臣に答申がなされる。
2015年(平成27年)7月8日 正式に国宝に指定。

山陰で唯一残る天守(現存天守12のひとつ。戦いのため堅固に築かれた名城
宍道湖の湖畔にたたずむ中国地方屈指の名城である。関ヶ原の戦いで戦功をあげた出雲壱岐24万石を与えられた堀尾吉晴が1607年に築城。江戸時代には松平氏18万石の屋台骨となった。2001年には3つの櫓(太鼓櫓、中櫓、南櫓)が木造で復元され、現存する天守とともに当時の面影をよく再現されている。現存する建物の天守重要文化財で、本丸、二の丸、三の丸はほぼ完存している。

松江城データ 
  ◎築城年 慶長16年(1611) ◎築城主 2代藩主 堀尾忠晴 
  ◎複合式望楼型四重五階天守、地下一階付き
  ◎一階床面積 447.23m ◎高さ 約30m(天守高さ22.43m石垣の高さ7.53m)

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松江城縄張り図

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天守(国宝)

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天守妻側

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南櫓

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本丸一ノ門正面

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松江城城郭の模型(全体像)

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松江城城郭の模型

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松江城城郭の模型

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太鼓櫓、南櫓、塀

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虎口

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橋(木造復元)

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常設展示場(2015年9月11日撮影)

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天守(2015年9月11日撮影)

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南側の県庁等と穴道湖を望む。(2015年9月11日撮影)

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南西側の穴道湖を望む。(2015年9月11日撮影)

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東側の遠く和久羅山と嵩山を望む。(2015年9月11日撮影)

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堀川めぐり








 

日本100名城(63)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡(おうみぐん))に築かれた戦国時代から江戸時代の梯郭式平山城および山城で、国史跡に指定され、別名は久松山城という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、1573年(天正1)、山名豊国は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国鳥取県東部)の拠点となりました。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部 継潤(みやべ けいじゅん)によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。

標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城跡である。

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鳥取城縄張り図

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久松山きゅうしょうざんの山麓(山下ノ丸)と山頂(山上ノ丸・標高263m)に城跡がある。(鳥取県庁から望む)

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鳥取城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真)

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石垣

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城址から望む市街

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復元城門

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巻石垣(鳥取城の天球丸)石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣によって石垣下部が補強された

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仁風閣から二の丸の石垣を望む

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宝扇庵(旧扇御殿化粧の間)