日本100名城(62)
和歌山城は和歌山城は今から約430年前、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて建てたお城で和歌山県和歌山市一番丁にある。その後、徳川御三家の一人、徳川頼宜(よりのぶ)が城主を務めたことにより城郭の大改修を行ない、明治維新までの250年間紀州徳川家の居城として幕府の西の要としての役割を果たしていたと言われています。和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、白壁の天守閣の美しさから、別名「白亜(はくあ)城」、山の名前を取って「虎伏城」などとも呼ばれていました。北部を流れる紀ノ川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。当時の石垣や土塀、岡口門・追廻門などが今も残っていてそのうち岡口門と土塀が国の重要文化財に指定されています。城跡は国の史跡に指定されている。
日本100名城(61)
高取城(たかとりじょう)は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。堀は2.8kmの大規模なものだった。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
下記に記した三城が、日本三大山城といわれている。高取城が、比高がもっとも高く、その壮大な規模からも、高取城を「日本一の山城」と我々が考える所以である。 | |||||||||||||||||||||||||
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日本100名城(60)
赤穂城(あこうじょう)は、 兵庫県赤穂市上仮屋にある変形輪郭式平城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。昭和46年に国の史跡に指定され、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。平成18年には「日本100名城」に選ばれました。
浅野長直によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられた。これにより二の丸周辺の手直しがされた。それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素なものであったと伝えられています。城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入は船が出入りできるようになっていました。
日本100名城(59)
姫路城は播磨国飾東郡姫路、現在の兵庫県の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた渦郭式平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月には奈良の法隆寺とともに、日本で初のユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。
16世紀後半に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって基礎が築かれ、関ヶ原の戦い後、西国大名に対する備えとして池田輝政により現在の姿になった。1956年に始まった「昭和の大修理」を経て、往時の姿に最も近い状態に保たれた。現存する日本の城郭建築の最高傑作といわれ、平山城(ひらやまじろ)の典型で、天守をはじめ城郭の主要部分が完存している貴重な遺産である。五重7階の大天守と、東、西、乾(北西)の3つの小天守は渡櫓(わたりやぐら)で結ばれ、幾重にも連なる千鳥破風(はふ)や唐破風の屋根を頂く大天守と、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)に仕上げられた外壁が、鮮やかな構成美をもっていることなど、芸術的な優美さと要塞としての機能性や保存状態が評価され、世界遺産に登録された。
日本100名城(58)
明石城(あかしじょう)は連郭梯郭混合式の平山城。本丸の西南に天守台の広さは約152坪がある。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定だったが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設された。『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっている。4基のうち南側の2棟、巽櫓・坤櫓の棟の方向は異なっている。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)とした。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めた。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。
明石城は、今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が西国の外様大名の抑えの城として、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった明石の地に、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城。築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。1957年(昭和32年)に巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定され、 2004年(平成16年)には城跡(明石公園の一部)が国の史跡に指定されました。なお巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です。
日本100名城(57)
篠山城(ささやまじょう)は、兵庫県篠山氏北新町にある日本の城跡(近世城郭)。篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた輪郭式平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
篠山城は慶長14年(1609)に徳川家康の命により、京都から山陰・山陽両道に通じる要衝である篠山盆地に豊臣氏を包囲する城のひとつとして、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとして、天下普請によって山陰道の要衝である丹波篠山盆地中心部の丘陵である笹山に築城されました。加藤清正・浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・ 福島正則ら豊臣恩顧の大名を動員して築城家で名高い藤堂高虎が縄張を担当し、普請総奉行は姫路城城主・池田輝政が務め、15か国20の大名の夫役、 総勢8万人の労力による大工事で、わずか6か月の短期間で完成した。現在の城跡は本丸、二の丸の石垣内濠の一部、外濠、馬出など主要な城郭遺構が良く保存されていることから、昭和31年12月28日国の史跡指定を受けています。
城は内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設ける。外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形で、東・北・南に馬出を設けていた。二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出しており狭間の死角を少なくする工夫がされていた。築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りがあまりにも堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。篠山城大書院は天守のなかった篠山城の 中核をなす建物でした。
三の丸内に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋、街道沿いに町や社寺が配置された。
日本100名城(56)
竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった梯郭式山城縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。またこの地域は、しばしば秋の良く晴れた朝に濃い霧が発生することがあります。この朝霧が竹田城跡を取り囲み、まるで雲海に浮かぶように見える姿から、いつの頃からか竹田城跡は「天空の城」と呼ばれるようになりました。平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されました。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある(ちなみにこの3曲輪は、ほぼ同じ高さに設計されている)。
竹田城のはじまりは嘉吉年間(1441〜1443)に山名宗全の配下の太田垣氏による築城とされ、石垣は無く土の城だったと考えられている。天文7年(1538)以降は、生野銀山の採鉱が本格化し、その領有権でも重要な城となる。秀吉が姫路に入って後、秀吉は西の上月城を攻め、弟の小一郎秀長は、天正5年(1577)、3,000の兵で但馬攻めを行い竹田城は陥落する。石垣は主に文禄年間から慶長初期の間に、当時秀吉配下となった元播磨龍野城城主、赤松広秀によって築かれた。近江の穴太衆による石垣と同技術の野面積みで、そのコーナー部の反りには算木積みが大成する前の過渡期の積み方が見られる。関ヶ原の戦いの後に、赤松広秀の死とともに廃城となり、約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。