日本100名城(91)

島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった連郭式平城。有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置し、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言える。同じ事例に、高松城天守郭(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。城は昔「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので別名を「森岳城」や「高来城」とも言います。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。

 

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島原城 縄張り図

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島原城航空写真

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古絵図

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本丸

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本丸(左)と二の丸(右)

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復興天守

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天守。2017年1月

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民具資料館(丑寅の櫓)

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西望記念館(巽の櫓)

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観光復興記念館

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御馬見所

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島原文化会館











 

日本100名城(90)

平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式平山城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。豊臣大名だった松浦鎮信は、慶長4年(1599)に日の岳城を現平戸城地に築城したが、慶長18年、徳川幕府からのあらぬ疑いを受けぬよう自ら焼却し、その後約90年間、藩政は御館で行った。元禄16年幕府から築城許可がおり、山鹿流兵法を用いて築城を行った。赤穂城と並び、数少ない山鹿流による城郭です。現在の城は1962年(昭和37)復元(天守閣三層五階建)され、その後櫓も随時整備された。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。

 

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平戸城の航空写真 (1977年撮影・国土航空写真)

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平戸城 古図

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亀岡公園マップ

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再築亀岡城の図

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模擬天守

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模擬天守

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平戸城天守図、17世紀

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北虎口門

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見奏櫓

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地蔵坂櫓

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平戸城懐柔櫓

 

日本100名城(89)

佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名佐賀藩鍋島氏の居城であった。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思われる「慶長御積絵図」とは本丸石垣の構成や櫓の数など異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。

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現在の佐賀城跡

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佐賀城全景図

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復元された佐賀城本丸御殿

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鯱の門→天保9(1838)年当時の姿を残す

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天守台→天守閣は享保11(1726)年に焼失し、以後再建されなかった

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西側土塁石垣→ 外面が石垣、内面が土塁となっている。

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南西隅櫓台→切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣

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堀→佐賀城を囲む堀で幅40間(約70m)ある

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御座間→天保期の瓦や柱など当時の部材を使用。色の違いがよく分かる









 

日本100名城(88)

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、弥生時代の遺跡の中でも佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった吉野ヶ里丘陵にある我が国最大の遺跡で、およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(かんごうしゅらく)跡で国の特別史跡に指定されている。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。

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吉野ヶ里遺跡 全景

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吉野ヶ里歴史公園

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外濠は土塁と柵、逆茂木・乱杭で防衛が図られた

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環壕入口

吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。

 

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北内郭の大型建物

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北内郭 ~まつりごとの場所~

吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。

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甕棺墓列

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甕棺墓列 ~一般の人々の墓地~

甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている)が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます。

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海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。

 


 

 

 

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復元された倉庫

西方倉庫群は平成11年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。

 

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倉と市

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南内郭

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南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~

吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。

南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます。また、最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます。

 

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北墳丘墓

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北墳丘墓 ~歴代の王の墓~

吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。

 

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祭壇

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中のムラ ~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~

吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。

 

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南のムラ

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南のムラ ~一般の人々の居住地~

弥生時代吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。

北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。

 






 












 

日本100名城(87)

名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった。太閤豊臣秀吉文禄の役を始める前に波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。現在、国の特別史跡に指定されている。

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肥前名護屋城縄張り図

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名護屋城のステレオ空中写真(1977年)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

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浅野文庫所蔵 諸国古城之図

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肥前名護屋城図屏風

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名護屋城天守

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名護屋城天守

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名護屋城本丸跡

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名護屋城馬場跡

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『西肥名古屋城豊太閤陣営図』









 

日本100名城(86)

大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市大野城市糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城(朝鮮式山城)である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡大野城跡」に指定されている。大野城飛鳥時代大和朝廷によって築城された、我が国最古の古代山城です。天智2年(663年)に「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した倭国(後の日本)が天智4年(665年)大宰府防衛を目的として築いた城であると考えられています。『日本書紀』に登場する城で、城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。

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大野城 (筑前国)縄張り図

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百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)

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太宰府口城門跡

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大石垣(高さ6m)

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小石垣(高さ10m)

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北石垣(上段高さ4m)

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増長天地区の建物礎石

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主城原の建物礎石

 

日本100名城(85)

福岡城(ふくおかじょう)は、現在の福岡県福岡市中央区に築かれた梯郭式の平山城で、 豊前国中津12万石から筑前国福岡52万石に移封された初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城した12代270年余にわたる黒田氏の居城。天守閣はなく大中小の各天守台と47基の櫓や10棟の城門があったという。本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置で構成された内城部分で413900㎡、城下の武家屋敷まで含めば2460000㎡もの広大な規模を持つ城郭で、東側に那珂川をもって堀とし高石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。別名、舞鶴城、石城。国の史跡に指定されている。

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福岡城縄張

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福岡城曲輪分界図

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福岡城跡の航空写真 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

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南ニノ丸多聞櫓

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石垣

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祈念櫓

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伝・潮見櫓

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鉄御門跡

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多聞櫓(城内より)

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名島門

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下之橋御門(2008年復元)

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福岡城・鴻臚館案内処「三の丸スクエア」

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天守台礎石