日本100名城(93)
人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり相良氏の居城として知られています。江戸時代には人吉藩の藩庁であった。幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。これは日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない大変珍しいもので、規模は人吉城のものがもっとも大きいです。現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されています。また、隣接する人吉城歴史館には石造り地下室の遺構が保存されています。国の史跡に指定されている。
日本100名城(92)
熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。築城の名手と謳われた加藤清正が中世城郭を取り込み改築した梯郭式平山城で日本三名城の一つとされ、江戸時代から残る宇土櫓や「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣が有名です。清正は籠城戦になった際の対策として120カ所の井戸を掘り、また食料確保のため城内の建物の土壁にかんぴょうを塗篭め、畳床には食用になる「ずいき」を用いるなど、実戦的な城でした。加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の復興天守は1960年(昭和35年)に熊本国体開催と築城350年を期に、1億8000万円の費用をかけて外観復元されたもの。宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
日本100名城(91)
島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった連郭式平城。有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置し、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言える。同じ事例に、高松城の天守郭(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。城は昔「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので別名を「森岳城」や「高来城」とも言います。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。
日本100名城(90)
平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市、平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式平山城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。豊臣大名だった松浦鎮信は、慶長4年(1599)に日の岳城を現平戸城地に築城したが、慶長18年、徳川幕府からのあらぬ疑いを受けぬよう自ら焼却し、その後約90年間、藩政は御館で行った。元禄16年幕府から築城許可がおり、山鹿流兵法を用いて築城を行った。赤穂城と並び、数少ない山鹿流による城郭です。現在の城は1962年(昭和37)復元(天守閣三層五階建)され、その後櫓も随時整備された。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。
日本100名城(89)
佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思われる「慶長御積絵図」とは本丸石垣の構成や櫓の数など異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。
日本100名城(88)
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、弥生時代の遺跡の中でも佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった吉野ヶ里丘陵にある我が国最大の遺跡で、およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(かんごうしゅらく)跡で国の特別史跡に指定されている。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。
吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている)が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます。
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。
西方倉庫群は平成11年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。
南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます。また、最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます。
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。
吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。
弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。
北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。