日本100名城(30)

高遠城(たかとおじょう)は、長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。兜山城の別名をもつ。桜の名所としても有名である。国の史跡に指定されている。

高遠城諏訪氏一門の高遠頼嗣が居城としており、甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)に内応して諏訪攻略を援護している。頼重は武田により滅ぼされるが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、1545年(天文14年)4月に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。

 1547年(天文16年)に高遠城信濃への進出拠点として、足軽大将の山本勘助や譜代家老の秋山虎繁(信友)に命じて大規模な改築が行われたという。南に三峰川(みぶがわ)、北に藤沢川が流れ、このふたつの川が合流する段丘上に築かれた平山城で、川からの比高は約70m。本丸を段丘の突端に置いて、北から東に二ノ丸、三ノ丸などをめぐらす縄張で、曲輪の間には深い空堀を設けている。高遠城は、武田氏の軍事拠点として重きをなしたが、武田勝頼実弟仁科盛信(にしなもりのぶ)が城主のとき、天正10年(1582)に、織田信忠軍の猛攻によって落城した。

 江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。 城の縄張りは戦国時代の信玄流築城の面影を留め中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用として三層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった。

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高遠城

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高遠城

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桜雲橋と問屋門

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高遠城問屋門

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本丸の空堀をまたぐ桜雲橋おううんきょうと問屋門

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高遠城大手門

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太鼓櫓

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高遠城