日本100名城(58)
明石城(あかしじょう)は連郭梯郭混合式の平山城。本丸の西南に天守台の広さは約152坪がある。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定だったが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設された。『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっている。4基のうち南側の2棟、巽櫓・坤櫓の棟の方向は異なっている。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)とした。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めた。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。
明石城は、今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が西国の外様大名の抑えの城として、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった明石の地に、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城。築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。1957年(昭和32年)に巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定され、 2004年(平成16年)には城跡(明石公園の一部)が国の史跡に指定されました。なお巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です。