日本100名城(81)
松山城(まつやまじょう)は、愛媛県松山市にある標高132m、比高約90mの連郭式平山城。松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。日本三大平山城にも数えられる。山頂の本壇にある天守(大天守)は、連立式層塔型三重三階地下一階。日本の12箇所に現存する天守の一つである。この中では、姫路城と同じく、連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられる。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。各地の松山城と区別するため『伊予松山城』と呼ばれることもあるが、これはごくまれなケースであり特別な事情を除いて一般的に「松山城」と指した場合は本城を示す。現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、現存する天守、野原櫓、乾櫓、隠門続櫓など櫓5棟、戸無門、隠門、紫竹門、一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟が国の重要文化財に、再建された建造物は、小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、良門東続櫓など22棟。城郭遺構が国の史跡に指定されている。
日本100名城(80)
湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町にある城跡。中世の城郭で、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用して作られた梯郭式平山城です。築城当初の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でしたが、約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったと推定されます。江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)、西側が搦手(裏)と考えられています。
城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残り、城郭発達史からみても基調で稀な中世の城跡であること、また中世の主要な守護大名の拠点城郭であることに加え、時代や地域を代表する特色を持つことから地域の伝統技法や工法を使った復元などが評価され、平成14年に国史跡となり、その後日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されています。
日本100名城(79)
今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町三丁目)にあった輪郭式平城(海城)。高松城、中津城と並んで日本三大水城のひとつに数えられています。昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県史跡に指定された。別称「吹揚城(吹上城)」。
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。直線的な城壁で囲まれた三重の曲輪と、海水を引き入れた三重の幅の広い水掘り、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城で主要な虎口には枡形門、高石垣には多門櫓などを配置し、高虎の築城手法が遺憾なく発揮されている。
今治城の天守は、一次資料が不足しているため、築城当時に建造されたか否かが確定されていない。 藤堂家の家譜『宗国史』巻二には「城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き」と記述されているが、敷地内に天守の遺構が確認されていないためである。
日本100名城(78)
丸亀城(まるがめじょう)は讃岐国、現在の香川県丸亀市にある、築城400年を誇る丸亀のシンボル、全国に現存する『木造天守十二城』の一つ。現存する天守、大手一の門、大手二の門は国指定重要文化財に指定されている。丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、渦郭式平山城で、石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」と呼ばれる。その上に木造の天守がそびえる。天守は日本一小さいが、内堀から四層に積み重なった石垣は美しく、「石の城」と形容されるその名のとおり、丸亀城は石垣の名城として全国的に有名です。山麓から山頂まで4重に重ねられ、合わせると60メートルになり、総高としては日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。誤解されやすいが、あくまで総高としての日本一である。亀山城(かめやまじょう)、蓬莱城(ほうらいじょう)ともいう。
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日本100名城(77)
高松城(たかまつじょう)は、香川県高松市玉藻町にある。玉藻城(たまもじょう)とも呼ばれる国の史跡です。海岸に面しているため、海城とも言え瀬戸内海の水軍基地としても機能させることが前提だと言えます。
そのため、伊予の今治城、豊前の中津城と共に、堀には海水を引き入れた日本の三大水城のひとつに数えられます。城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。 かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。
高松城 関連年表 |
1587年(天正十五年) | 生駒親正が17万6千石の領主として讃岐に入封。 |
1588年(天正十六年) | 親正、高松城の築城を開始する。 |
1592年(文禄元年) | 親正、5500の軍勢を率いて、朝鮮に渡る。(文禄の役) |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原の戦いにより親正、子の一正に家督を譲る。 |
1640年(寛永十七年) | 御家騒動により生駒氏、讃岐一国を没収され、出羽・矢島1万石に移封となる。 |
1642年(寛永十九年) | 松平頼重が、常陸・下館より東讃岐12万石の領主として入城する。 |
1670年(寛文十年) | 三層五階の天守閣が完成する。 |
日本100名城(76)
徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった梯郭式平山城。城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっている。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に戦功をあげた尾州の蜂須賀正勝は、阿波一国を与えられたが老齢のため辞退、嗣子家政が代わって阿波1国18万6000石を賜わる。1585年(天正13年)家政は名東郡富田庄の標高62mの猪山にあった渭山城と山麓の寺島城を合わせた大規模な平山城を起工。長宗我部元親、小早川隆景らの助けを得て翌1586年(天正14年)に完成、この地を徳島とした。以後、江戸時代を通して四国で最大の石高をほこる徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、以来明治に至るまで蜂須賀氏累代の居城として栄えた。現在は徳島中央公園として整備されており、太平洋戦争中で焼失した鷲之門が復元されました。また、公園内には蜂須賀家政の銅像も建てられており、市民に開放されている。国の名勝に指定された表御殿庭園に隣接する徳島城博物館では徳島藩と蜂須賀家の歴史資料が常設展示されています。