日本100名城(89)
佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思われる「慶長御積絵図」とは本丸石垣の構成や櫓の数など異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。
日本100名城(88)
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、弥生時代の遺跡の中でも佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった吉野ヶ里丘陵にある我が国最大の遺跡で、およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(かんごうしゅらく)跡で国の特別史跡に指定されている。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。
吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている)が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます。
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。
西方倉庫群は平成11年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。
南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます。また、最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます。
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。
吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。
弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。
北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。
日本100名城(86)
大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城(朝鮮式山城)である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。大野城は飛鳥時代に大和朝廷によって築城された、我が国最古の古代山城です。天智2年(663年)に「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した倭国(後の日本)が天智4年(665年)大宰府防衛を目的として築いた城であると考えられています。『日本書紀』に登場する城で、城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。
日本100名城(85)
福岡城(ふくおかじょう)は、現在の福岡県福岡市中央区に築かれた梯郭式の平山城で、 豊前国中津12万石から筑前国福岡52万石に移封された初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城した12代270年余にわたる黒田氏の居城。天守閣はなく大中小の各天守台と47基の櫓や10棟の城門があったという。本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置で構成された内城部分で413900㎡、城下の武家屋敷まで含めば2460000㎡もの広大な規模を持つ城郭で、東側に那珂川をもって堀とし高石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。別名、舞鶴城、石城。国の史跡に指定されている。
日本100名城(84)
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。別名鷹城(たかじょう)。
高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られている。天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在、城全域は高知公園として無料で開放されているが、天守および本丸御殿(別名、懐徳館)への入館は有料となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
重要文化財指定は以下の15棟。
日本100名城(83)
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にある。中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭で、標高約80メートルの独立丘陵を主体とする梯郭式平山城の形式で、典型的な海城であった。平面は五角形をし二辺は海に、三辺は城堀を隔てて城下町に接していた。城山下の三之丸には内堀をめぐらし、城主の館があった。(今の消防署の場所)城主の館が城外に移ったのは、世の中が太平になった伊達二代宗利の時からである。城下町は高虎によって河流を付け替えられたという辰野川、および神田川の二つの川によって守られる形になっている。この城下町は城の東部が商人・職人町、南部が武家町に区画され、その外縁部、すなわち山麓に寺院を配置した。これによって出来た城を中心とした放射状の町割は数少ないといわれている。元和元(1615)年に伊達政宗の長子、伊達秀宗が入城して以来伊達家代々の居城となりました。現在の三層三階天守は伊達家の居城になってから再建されたものですが、城構えは藤堂高虎が創建した当時のものを引き継いでいます。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡で、現存十二天守に数えられる天守は国の重要文化財に指定されています。