日本100名城(9)
久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国 )秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園)にあった城郭。
久保田藩主佐竹氏の居城で知られ、矢留城、葛根城とも呼ばれている。江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。秋田市指定の名勝としての正式名称では「千秋公園(久保田城跡)」と、「久保田城」が使われている。
慶長7年(1602)、佐竹義宣は関ヶ原合戦において徳川家康に味方しなかった理由で、常陸水戸54万5,600石から秋田(出羽国20万5800石)転封された。この転封は転封先の知行高が明示されないという異様な指示であった。
雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)または「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している)。いずれにせよ山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお、天守については、寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。